日ごろからいろんなことを考えているけれど
年初はいつにも増していろんなことを考える。
たとえば、ほんとうにお久しぶりの方から届く年賀状。
私を思い出してくださっていることには間違いがないけれど
その人のなかには、『私に関するどんなイメージ』があって
この年賀状が届いたんだろう、とか。
私がこれまでの過去にその相手に投げかけた累々とした言葉の数々による
『最後の心象』が静止画像のようにぴたっと停まっていて、
それに相手が向き合って
年賀状のコメントを書いてくれたような気がする。
言いかえれば
自分が相手に何をして、いまに至っているのかを振り返る良い機会になる。
喜ばれることをしたかな。
高い視座からアドバイスできたかな。
痒いところに手が届いたかな。
見えない気持ちをわかってあげられたかな。
目先のことじゃなく、本質的にサポートできたかな。
人生、何があるかわからない。
はからずも2013はたくさんの死別を経験した。
肉親との死別は学生時代に経験していたが、それも四半世紀前。
自分と同じ世代の同僚や親友の死別は
それとはまったく違う意味を持つことを、この夏、はじめて知った。
けっして侮ることのできない、大きな穴が、心に、いくつも、あいている。
また会おうねって言っていたのに二度と会えなくなってしまった人たち。
久しぶりだねー、元気してたー?っていう会話ができなくなってしまった人たち。
まさかいなくなってしまうなんて、思いもしなかった人たち。
かくいう私も、もしかしたら、これが最後のやり取りになってしまうかもしれない。
人生、何があるかわからない。
最後のやりとり言葉がこんなもの?と思ってしまうようなクオリティなら
一瞬、口をつぐんで、慎重に言葉を選ぶべきだと思う。
2014年は自分の中で印象派の年にしたいと思っている。
絵画でいうところの印象派になぞらえたものだ。
白を多用して光を多用して明るければいいというものでもない。
光が強ければ強いほど、おのずと影も濃くなる。
逆もまた真なり、だと私は思う。
悲しみや苦しみ、嘆きや絶望が多ければそれだけ影が濃くなる。
人の何倍も苦しい思いをしたことは、やがて報われる日が来る。
つまり、背負った影と同じだけの光と輝きを抱きかかえることに
大きな意味がある。
健康面の不安があれば、おのずと仕事面や家族面にも不具合はおこる。
八方ふさがりのときがあっても、いつか道が開ける。
荷が重い、ということはそれだけあきらめるなということだ。
いままでにも八方ふさがりの時はあったけど
ご来光のようにまばゆいばかりのこともあった。
2013年に背負った苦しみの分を
しっかりと光に変えてゆこうと思う。
新しい人間になることはできないし、
自分にできること、すべきことは、
それしかないのだと思う。
光を取り戻そう、と思う。